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歴史と会社風土

歴史と会社風土

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関東サービスのルーツ

関東サービスの創業を語るには、私の大学時代まで遡ることになります。今から50年も昔の話です。大学生と言えば、遊び盛りの頃。親の仕送りだけでは満足できず、私は大学1年の春からアルバイトをはじめ、実に様々な仕事をしました。高額な給与を手にするために、きつい仕事もたくさんしましたし、いつも「もっと稼げる仕事はないか」と更にその上を探していたものです。

そんな時に別の大学の友人に声を掛けられたのが、当時「沖仲師(おきなかし)」と呼ばれた仕事です。船から陸への荷揚げや荷下ろしを行う荷役のことで、現代では「港湾労働」と呼ばれています。今は大型クレーンなどの機械を用いて荷揚げや荷下ろしを行うので、主に仕事内容は機械のオペレーターになりますが当時は違います。力仕事の最たるもので、体に自信があった私は、このアルバイトに乗り換えました。

当時の一般的なアルバイトの相場は日給500円程度。その直前までやっていた酒問屋の仕事がきついだけに日給700円。しかし、この港の仕事は日給1040円、しかも普通の人では食べきれないほどの大きな弁当付き。残業代まで入れれば1日1500円は稼げます。

でも、稼げるのにはもちろん理由があって、並大抵の体力では務まらないのです。入ったその日のうちに「お金はいらないから、私は帰ります」なんて言う学生もたくさんいるくらいの重労働。マイナス27度から30度の港や船の冷凍倉庫の中で、荷物を積んだり降ろしたり。怠けていれば寒さで凍えてしまうので、疲れても動き続ける。それは過酷な仕事でした。

鯨やマグロを積んだ何万トンという大きな船(長さにして100mくらいですね)が港に入ると6昼夜から10昼夜、その作業を昼も夜も続けるわけです。土曜日曜も関係ありません。朝の8時から夕方5時まで、夕食と休憩で1時間休んで、また6時から翌朝の7時まで作業は続きます。

普通だったら、そこで帰れると思うのですが、さらに「残業していってくれないか」と、結局35時間くらいは働くわけです。それで一晩寝たら、また同じことをやるという。 そんな仕事なので、並大抵の人では務まらない。だいたい入ったら、半分くらいの人は辞める。1週間経ったら、9割は辞めている。

でも私はこの仕事に没頭しました。大学の単位は、代返やテスト前にノートを友人に借りるなどして要領よくこなし、1年365日のうち、300日は仕事をしていたように思います。

何もなしに遊んでいた日は、年間でも10日程度でしょう。もともと、子供の頃から相撲大会に出場するなど、体力には自信がありましたが、この仕事のおかげで、気がつけば胸囲は140cm、ウエストが70cm、(体重は65kgくらいしかないのですが)腕相撲なんかやったら、誰にも負けないくらいになっていました(実際に百何十人の腕相撲大会で優勝)。

春は捕鯨母船が入って来て2ヵ月くらい、そのあとがマグロ母船、冬になれば鮭鱒船団。普段は100人くらいで足りる荷役が300人でも500人でも必要になる。現場の所長にとっては、これが悩みのタネでした。所長自ら「人集め」に駆けずりまわってはいますが、それでも足りない。そこで私たち学生に声を掛けるわけです。

「今日は仕事はいいから、学校に行って、体のいい学生を集めてきてくれないか」。

同郷の学生が色々な大学に散っていますから、それに声を掛けてまわる。金が欲しくて、がたいのいいのを探す。スポーツ系で、特に柔道や重量挙げなど、力のありそうな連中を集めてくるのですが、それでも1日で半分辞める。

昔はフォークリフトなんてないから、すべて手あげ。踊り場と言って、階段上に荷物を積みながら、人海戦術で天井まで積み上げる。とにかく、人がいるわけです。人がいなければ、どうにもならない。

だから所長も私たちが人を集めてくると、日給の倍くらいのお金をはずむわけです。「人を集めるにも金がかかるだろう」と。日給の1040円に加え、本来稼げるはずの残業代分と御礼で更に2000円から3000円をくれる。

「人を集めるのって、こんなにもお金になるのかぁ」とその時思いました。

携帯電話もパソコンも情報誌も何もない時代。働いてお金の欲しい人と、労働力を欲している企業を知り合い伝手で情報を集め、マッチングさせる。

「人を集めることでお金になる」。1960年、私が大学2年生の時の気づきでした。そして、それが私の「人材業」へのルーツとなったのです。

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起業 ~人と企業を助ける会社~

大学卒業後はアルバイトをしていたその会社にそのまま就職。その後その会社で20年、船の仕事や倉庫の仕事、また学生時代より領域を広げた「人集め」の仕事をしました。

普段は60台程度で済むトラックが、大型船が入ってくると何百台と必要になる。そのニーズにあわせて、トラックと運転手を用意する。材木やゴム、水産関係などの荷役会社などに声を掛け、必要な分を用立てる。色々な業者とのネットワークを作り、トラックや人材を貸し借りしていました。

入社から15年くらい経った頃、ひとつの考えが浮かびました。港は法律の規制で新たな参入は出来ないが、港から離れた場所で同じことを事業として行ったらどうだろうか。

春は忙しいが夏は暇だ。もしくは逆に夏は忙しいが春は暇だ、というようなニーズにあわせて人材を動かす。

考えてみれば、こういった考えは、決して新しいものでもなくて大昔からあるもの。「清水の次郎長なら、ひと声で3000人を集める」とか、「森の石松は、材木問屋や米問屋に自分の配下を派遣していた」というように、昔から「人を用立てる」ニーズはあったものなのです。

強きを挫き、弱きを助けるヒーローたちが昔、日本にはいました。浪人や農村の離農者を束ねて、労働の必要なところに送り込む。日本の人材業の歴史を紐解けば、こういった普段、ビジネスの世界では口にされない事実が浮かびあがってきます。

私が着目したのは、この仕組みをビジネスとして成立させることでした。創業以来、私は社員たちによく言ったものです。「この事業は大昔からあるものだ。大変ではあるが決してなくなることのない事業だ。しかも、世の中のためになる仕事なのだ」と。

「世の中のためになる仕事」とは、2つの意味合いがあります。ひとつは、人材による労働力を求めている企業に、その労働力を提供すること。もうひとつは、職を求めている人に職を提供すること。

時代と共に人材のニーズも多様化し、より高度な技術やスキルのマッチングが人材業のイメージとなっている現代、忘れ去られようとしている人材業の原点がここにあると私は思います。

それは、「働きたい」と思っている人が「働けない」ことに、人材業は見て見ぬふりをしてはいけない、ということ。人には誰しも働く権利があり、人材業に身を置く人間は、それに向き合わなければならない、ということです。

とかく民間の人材業者は、会社の利益を優先し過ぎて、このことを忘れがちです。経験豊富なスキルの高い人材を受け入れることも勿論ですが、若い人材、もしくはスキルの低い人材も受け入れ、自社で教育し、送り出すことも多分に必要なことなのです。教育に留まらず、必要によっては寝泊まりする「宿」だって用意しなければならないこともあります。

人材業の原点とは、クライアントにとって求める労働力を提供すると同時に、職を求める人材を切り捨ててはいけないということ。切り捨てることなく、真のマッチングを目指し、社会に貢献することだと私は思っています。

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創業期の苦労 ~妻との二人三脚~

晴れて浜松町に事務所を構えスタートした会社。創業当時は私も40代。まだ体力にも自信があり、いっしょに現場に入り仕事をしていました。

やがてバブル期が訪れ、仕事の数はうなぎ登り。そこに、私にとっては現場に入っている場合ではない事態が訪れたのです。

サラリーマン時代から人を集めることや、人をマネジメントすることには自信がありましたが、経理や総務といった仕事は私には全く経験がありませんでした。

右肩上がりに仕事が増えるぶん、運転資金がない。私は足しげく銀行に通いました。「売上はある。運転資金を貸してほしい」。しかし、まだ人材派遣もない時代、銀行にしてみれば「聞いたこともない事業ですね」と資金を貸してくれないのです。本当に資金繰りには苦労しました。

事業への誇りと自信を胸に、何度も銀行と話をしました。ちょうど私たちの事務所開設と同じ頃に出来た、ある銀行の支店があり、ご縁もあって何度も話をしているうちに、やがて事業の将来性を理解してくれて資金を用立ててくれました。

この銀行の支店とのお付き合いには、妻の果たしてくれた役割は大きかったと思います。こまめに銀行に顔を出しては、差し入れをしたりして、支店長から窓口の女の子まですべての人とコミュニケーションを深くして良い関係を築いてくれていました。

また、社内のコミュニケーションに関しても、妻の存在は大きかったです。実業は私が把握していますが、社内のスタッフへの気配りや空気づくりは妻の領域でした。

「誰々さんは、誕生日がいつで、食べ物は何が好きで、歌を歌う時は~の曲で」というように、社員のことは何でもよく覚えている。

社員の誕生日のお祝いや親子さんの病気への気遣いなどなど、私には到底できないフォローを、創業から現役を退く最近まで、ずっと続けてくれました。妻なくして、この会社は成り立たなかったと感謝しています。

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大家族のような組織

長く勤めてくれている人間が多いということは経営者として嬉しいことです。また、「出戻り」が多いということも、同じくらい嬉しいこと。

なかには、2回辞めて2回戻ってきた者もいる。「履歴書、何通目だ?三通目か(笑)」。なんて、笑ったこともあります。

私の持論として、いつも思っていることですが、それは「人というのは持ちつ持たれつ、縁で生きているもの」ということ。「立つ鳥、あとを濁さず。出会いを大事に。別れを大事に」ということは人間が生きるにあたって、とても大切なことです。

みんな、どこかで出会って、どこかで別れる。初対面の時も大事ですが、別れる時はもっと大事。「あの人いい人だったな。またいつか会いたいな」と思われるようにすること。

お客様との関係だって同じです。一生懸命に仕事をして、ひとつの仕事が終わった時に「また何かあったら頼むな」と言って貰えるような別れ方が大事。

社内では送別会をやりますが、「田舎帰っても元気で頑張れな」と、そうやって別れているから、ずいぶん時間が経ったあとでも「何年前に~事業所にいた山田ですけど」って電話が掛かって来る。「ああ、やまちゃんかぁ」って、また話ができる。「いいよ、また戻っておいで。いつから来れるんだぁ?」って。

私たちにとっては入社したら、もうみんな「家族のような」ものだから。家族のように接する。それが当たり前。東京に出て行った子供が田舎に帰って来るのに、迎い入れない親がいないのと、それは同じです。

過去には社員の親子さんのお葬式まで出したこともあります。お金がないから葬式を出せないという社員に、「最低限のことはしてあげなさい。用立てるから。5000円ずつ返してくれればいいから」と。

そういった大家族のような空気が人を育てるのだと私は思っています。いつの世の中でも、人を育てることはむずかしい。自分も育たたないと、人は育たない。子供は親に育てられるし、親だって子供の成長とともに自分も成長しているというように「喜ばれる仕事とは何か?」ということを軸にお互いが切磋琢磨して成長している家族。それが私たち関東サービスです。

その風土を維持するためには、一人ひとりが高い意識と相手への思いやりを持って日々過ごしていなければなりません。仕事への意識、そして「こういったら、相手はどう思うか」を考え、相手の立場になること。例えば、入ってきたばかりの社員に対してなら「入社当時の自分はどうであったか」を考えて接するべきということです。

あと、「人の悪口は言うな。自慢話はするな」ということ。嫌ですよね、悪口も自慢話も。人が嫌がることは、言うな、するな、ということです。

自分がやさしくなれば出来るはずのこと。そういった、人として当たり前のことを当たり前にしていくことが大切であり、それによって風土は維持され、人も成長していくと私は考えています。

私が現役を引退して、最初は少し心配だったのですが、社長も社員も、よくやってくれていて、今では私は月に4回とか5回、顔を出すくらいです。

「人を集める」ということを50年前からやってきたわけですが、私としては他の事業をしてもらってもかまわない、と思っています。「これからは、人材業以外にもほかにも出来るものみつけて、やっていいんだから」と言っています。

もちろん、今いる社員がみんな食べていけること、家族が家族でいられること、そして、様々な面で会社として当たり前のことを当たり前にできることが大前提ですけどね。

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